武相総鎮護 座間神社
鎮座地


神奈川県座間市座間一丁目三四三七番地、境内には湧水の豊富な座間市民の飲料水の源を有して、遠く大山、丹沢連峰の山並みを仰ぎ、近くは相模の母とたとえられる、相模川の流れを一望でき、また四季を通して草花の咲き乱れる座間公園に隣接する風光明媚の名勝であります。
鎮座地
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)景行天皇の皇子。古事記に「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」とあるように凱旋の士で、東国従伐の途中、伊勢神宮へ参拝し、倭姫命より叢雲鶴剱を得られ、その威霊によって駿河国に於いて野火の難を免れました。そしてその賊を滅ぼされ、相模国より走水の海を渡られ、上総国に入られ東国蝦夷を平定するなど、歴戦のロマンを秘められた尊の御神徳と御功績をお慕い奉っております。
例祭


8月30日
由緒

「相模の飯綱さま」と親しまれている当神社の創祀は神代と云われていますが、一つは欽明天皇の御代(五三九~五七一)に、坐摩郷(座間の古名)に悪疫が流行した折に飯綱権現の化身である白衣の老人が現われ、崖下の森の中に湧く清水を使うようにすすめたので、村人がそのすすめに従ったところ、悪疫はやみました。そこで飯綱権現を祀ったというのです。
別の説(明治十二年編成皇国地誌)では、約八百年前の源頼朝が鎌倉へ幕府を開いたころ、悪疫が流行したした時に白衣の老人が来て、日本武尊を祀れば悪疫が治まると教えたので、日本武尊を祀ったといいますが、その時代は正和二年(一三一三)で、祭神は飯綱権現だという説もあります。
飯綱権現は、江戸時代には防火の神として信仰されていて(本来は伊勢の豊受大神と同じ食物の神様)、長野県の飯綱権現社が本社でした。座間神社と改めましたのは、明治九年で日本武尊が野火で攻撃された時、剱で草を刈って防いで勝ったという神話にもとづき、後世防火の神様ともされていましたので、明治時代になって村社とされるとき、同じくご利益のある日本武尊に祭神が改められました。正和二年、社殿を再建します。

この頃より武家の参詣が相次ぎまして、慶長七年(一六〇二)には領主内藤修理亮清成が一統を率いて参拝して武運長久、氏子の繁栄を祈られたという記録もあります。また、古くからこの地は、八王子街道の宿場街として栄え、ここを往来する人々、
また生糸を運ぶ車両の安全を祈念した人々で社頭が賑わいをみせたとも伝えられています。
飯綱稲荷大明神

『いなり』語源が「稲成」「稲生」であることから、五穀豊穣・商売繁盛・工場安全・家内安全の守り神として広く親しまれています。

座間神社の神水

欽明天皇のころ(539年~)、座間の里に悪疫が流行し村人たちは大変苦しみました。
その時白衣の老人(飯綱権現の化身)が現れ、山すそから湧き出る清水を使うようにと告げました。
村人がそのお告げに従い湧き出る水を汲んで飲み水としたところ、悪疫がおさまりました。
感激した人々が飯綱権現を祀ったのが、座間神社のはじまりと伝えられています。
御神水は、座間神社の石垣の下、神社会館すいめいの右脇空き地の奥にあります。
神社建立の由来ともなっているこの湧水は夏は冷たく、冬は温かい水です。
座間神社の見どころ

境内に入り急な石段を上りつめると、社殿に向かう左手の木立のもとに芭蕉の句碑が立っている。
この句碑の高さは50cmほどの河原石で、碑面には「はるなれや名もなき山の あさのつゆ はせお」と刻まれている。

境内に続く座間公園は桜の名所で、相模平野の高台という好立地と、大山、丹沢、箱根の山々を花越しに望める景観は絶品。
平成10年には、座間市名所八景のひとつに選ばれている。境内から眺める夕日の美しさは格別で「夕日の丘」と銘々されているほど。
デートスポットとしてもオススメ。北原白秋の門下である、座間市出身の歌人、鈴木英夫の歌碑もある。

「阿夫利嶺に沈む夕日をつゝしみて送りたりしかいにしへ人も」
平成11年4月10日、座間八景制度を記念して建立。
